「クロヨン」の名称で有名な黒部川第四発電所の建設は、関西電力が世界銀行から受けた2回目の貸出でした(1回目は多奈川火力発電所二基:1953年10月調印、21,500,000USドル)。1950年代、日本は、戦後日本経済の復興の本格化に伴う深刻な電力不足に直面していました。特に、当時の主流であった大容量の火力・原子力発電所は出力調整が素早くできないという難点があり、季節・時間に応じて流量調整できる大貯水池式発電所の建設は急務でした。黒四発電所プロジェクトは、25万8000キロワットの電源確保を可能にし、神戸や大阪といった関西の主要都市への安定した電力供給を通じて、当時の主要産業である鉄鋼や造船、繊維などを支えることを目的としていました。
1957年、世銀は対日電力貸出に関する調査団を派遣し、関西電力の黒四発電所プロジェクトの他、北陸電力、中部電力、電源開発のプロジェクトも現地視察を含め事業計画について厳密な審査を行いました。その後、日本政府と世銀間での何度かの交渉の後、1958年、ワシントンDCにある世銀本部の理事会において対日電力貸出が承認され、朝海在アメリカ日本大使、間島日本開発銀行理事、ナップ世界銀行副総裁が貸出契約、保証契約などに署名を行ないました。1956年(昭和31年)に着工されたダム建設には、513億円という当時としては莫大な金額と、延べ1000万人もの人手が投入されました。世銀からの貸出は、総工事費の約4分の1にあたります。
黒部川流域は年間降水量約4,000mmという多雨地帯で、しかも河川の勾配が平均約1/40と他に類を見ない急流河川です。そのため早くから水力電源の宝庫として注目されてきたにもかかわらず、人跡未踏の秘境とあって電源開発は困難を極めました。特に黒四発電所プロジェクトは、黒部川上流の渓谷に、巨大な貯水池、日本初のアーチ式ドーム越流型ダム、発電所を建設するというかつてないスケールで、また当時高まりつつあった自然保護の動きも相まって、着工は難航が予想されました。実際、破砕帯からの大量の湧水や土砂崩壊など掘削作業は様々な困難に阻まれ多くの犠牲者が出ましたが、着工後、実に7年の歳月を経て完成しました。
1960年、世銀の技術専門家が黒部ダム建設を視察した際、同じく世銀貸出を受けて建設された南フランスのアーチ型ダムが崩壊した事故の影響もあり、岩盤強度への疑念から黒部ダムの高さを186mから150mにするよう勧告しました。しかし関西電力側は、当時国内になかった地質テストのためのプレートジャッキをフランスから空輸してまで現場の地質状況の磐石性を証明することに成功し、さらに2年間に及ぶ協議を重ね、最終的には基本設計のダムの高さや貯水量を変更することなく当初の計画・工程を完了することができたというエピソードが残っています。このように黒四発電所プロジェクトは、世銀の徹底した安全へのこだわりと日本の卓越した技術力により完成したのです。
プロジェクトデータ |
調印日:1958年6月13日 受益企業:関西電力 対象事業:黒部第四水力発電(86千kW三基) 貸出額:3700万米ドル |