愛知用水の建設を求める運動は、60年以上前、知多の農民・久野庄太郎さんと農業学校教諭の浜島辰雄さんのアイデアをもとに始まりました。 久野さんは1947年(昭和22年)の大干ばつを契機に、木曽川から知多半島に水を引くことを思い立ち、農村同志会などの農業団体に働きかけ、用水路建設のための運動を展開しました。 かねてより同じ構想を描いていた浜島さんは、新聞記事でこの事を知り、すぐに久野さんのもとに駆けつけました。意気投合した二人は早速現地調査を始め、愛知用水概要図(写真参照)を作成しました。
用水建設プロジェクト開始前の日本の食糧(主に米、魚、野菜)自給率は80パーセントで、不足分は輸入によって賄われていました。 1957年までの人口は9千万人で、年間550万トンもの食料が輸入され、政府負担額は6億米ドル相当に及びました。
1965年までに人口は1億人に達すると予想され、日本の食料生産量が増加しない限り、食糧不足は深刻化すると懸念されました。 自給率をさらに上げなければ近い将来、食料不足に見舞われる――生産地域への潤沢な水資源確保は重要課題でした。
愛知用水公団の設立や世銀からの貸出を含む各種資金により、知多半島の農業生産量は予想以上に増加しました。 愛知用水建設後約50余年経った今、愛知用水は農地の開拓だけでなく、温室栽培や果樹園、家畜業なども可能にし、地域の発展に不可欠な用水となりました。この地域の農業生産高は1963年当時、255.7億円規模でしたが、1999年には708.5億円に達しています。
また、名古屋に近い76ヶ所もの鉄鋼業や化学業、その他の工場への工業用水も供給されました。知多半島における工業生産は1963年当時、総生産額ベースで3259億円規模だったものが、1999年には3兆8650億円まで拡大しました。
2011年12月、世界銀行東京事務所と独立行政法人水資源機構(JWA)は、通水50周年を迎えた愛知用水をテーマにしたパネル展を開催しました。
プロジェクトデータ |
調印日:1957年8月9日 受益企業:愛知用水公団 対象事業:愛知用水事業分 貸出額:700万米ドル |