自然と将来の働き方を考えたメキシコでの幼少時代 家族の都合で、メキシコに0〜5歳、10歳〜14歳の計8年半いたんです。後半はインターナショナルスクールに通っていたので、そこで英語を身につけました。その学校は約55カ国からの子どもが集まっていて、外交官や国連関係の親が多かったので、漠然とその頃から色々な国の人と働きたいと思うようになりました。中学生の頃ですね。日本に帰ってからも、そのイメージは持ち続けていて、外交官になるんだ、と決めていました。そこで大学でも国際政治、国際安全保障を学びました。
大学生時代に日本の省庁でアルバイトをしたのですが、女性職員が少ないこと、また皆さんほぼ毎日夜中まで仕事をされているところを見て、あれ?なんかちょっとイメージ違うな、と。国際的な仕事ができる、女性でも総合職で働ける、という2点を念頭に置いて就職活動をした結果、JICAに就職を決めました。正直に言うと、その時は開発にそこまで興味があったわけではなかったので、同期が学生時代からNGOでボランティアをしてきたという人ばかりで少し違和感を感じていましたね。
平和構築支援という言葉に出会い、東ティモールへ JICA入団2年目頃に、JICAの中でも積極的に平和構築支援をやらなくてはいけないという話になったんです。もちろんその時はまだ「平和構築支援って何?」という時代。政治的や戦略的な話が入ってくる分野だったので、今まで学んできた国際安全保障と開発の接点だと感じ、これこそ自分がやりたかったことだと思いました。そこで、平和構築支援の調査研究のワーキンググループを立ち上げ、メンバーに入れてもらいました。その後、もっと平和構築について学ぶために留学を希望しました。
同時期に東ティモールがインドネシアから独立。国連のPKOミッションが立ち上がり、留学までの3カ月間行ってみては?という話をいただきました。3カ月では何も達成できないと感じたので、留学を1年延ばして1年半ぐらい行かせてくださいと交渉し、JICAから外務省に出向という形を取って、国連の東ティモール暫定行政機構に参加しました。
ケネディスクールでコミュニティ主導型開発(CDD)のインターンを経験 留学先はハーバード大学のケネディスクールです。アメリカの大学院に複数応募し、合格通知をもらった中で国際安全保障、平和構築に強いところと聞いていたのでそこに決めました。また、アカデミックな教育だけでなく、実社会に通用する実用的な教育を重視しているところもいいなと思いました。東ティモール時代に、人々が自分たちの開発ニーズを模索し、政府からの資金の使い方を決め、自ら小規模インフラを作るという、コミュニティ主導型開発(CDD)という分野で有名だった世界銀行インドネシア事務所の社会開発ユニットの職員が、東ティモールでもインドネシアでも面白い仕事をしていると聞き、夏休み中は彼のもとでインターンをさせてもらいました。
「東ティモールでこんな経験をしてきました、夏休み中にあなたのところで働かせてください」と言ったら「インドネシアと東ティモールでは規模が違うし、あなたはインドネシア語もできないからあまり役に立たない」と言われましたが、頑張って交渉しました。ケネディスクールの修士論文も、実社会にクライアントを見つけて彼らの役に立つような政策提言をするように言われたので、インターン先の世界銀行インドネシア事務所の社会開発ユニットをクライアントとして政策提言を書きました。8週間、インドネシアの宗教紛争があったところで村を転々としつつ、地方分権が武力紛争防止に役立つのか、それともむしろ権力争いをさらに悪化させてしまい逆効果なのかといったことを調査し、そういう環境下でCDDプロジェクトが武力紛争防止にどう貢献できるのかという政策提言をしました。修士論文の調査で行ったインドネシアで夫と知り合ったので、インターンに参加したことが人生の転機になったと言えるかもしれません。
留学を終えアフガニスタン事務所へ。そして転職 JICAに戻った後は、紛争現場での経験をもっと積みたいと思い、人事部に交渉してアフガニスタン事務所へ。きっとあまり希望者もいなかったでしょうから、渡りに船という感じだったかもしれません。コミュニティ開発、地方開発という仕事をしつつも、経理の仕事なども担当しながら2年が過ぎました。
アフガニスタンにて 結局9年間ほどいたんですが、JICAを退職。平和構築やローカルガバナンス分野を掘り下げて、もっと専門性を高めたい、と思ったのが理由です。世界銀行は、当時社会開発ユニットの中に紛争チームを作ったんですが、結局インターンをさせてもらった世銀職員がその分野の第一人者で面白い仕事をされていたので、彼のチームに入りました。また、夫がジャカルタにいたので、自分もインドネシアに行こうという気持ちも少しはありましたね。アチェとジャカルタは飛行機で3〜4時間でしょうか。同じ国とはいえ、近所とは言えない場所でしたが。
JICAを辞めたことについては、両親に「安定した職場だったのに」と反対されたり、自分の中にも将来の不安があったので、世銀のヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)プログラムとアジア開発銀行(ADB)のYPPプログラムの両方を受けました。世銀の方は残念ながら最終面接で落ちたのでADBへ。アチェからフィリピンに移りました。フィリピンベースで最初の1年は中国、あとの2年は南アジアのコミュニティ開発プロジェクトを担当しました。ADBは全体的にインフラ開発や金融開発重視だったので、自分のやりたかった社会開発、紛争系の仕事ができないという思いが強くなり、約3年半後に世銀に戻ることにしたんです。ただADBは2,500人ほどで世銀に比べたら規模が非常に小さいので、若くてもすぐに責任がある仕事をまかせてもらえたのは良い経験になりました。ADB時代に結婚しました。
世銀で働きながら2人の出産と子育てを両立 世銀の人事部にいた日本人の方が、お会いしたこともなかったのですが、世銀のYPPを受けた時から数年間、半年ごとくらいにその後いかがですか、いつか世界銀行に来られることを考えてくださいね、という内容のメールをくださっていたんです。ADBに入ってから何年か経ち、彼女から再びDCに来ることがあれば インフォメーショナルインタビュー(注) でもどうですか、というメールをいただき、あるとき世銀に勤めている夫がワシントンに行くというので自分も同行することにしたんです。そこで世銀の関連部署の人たちに会い、今すぐではないけれど、機会があったらよろしくお願いします、という話をしていたら、とんとん拍子に話が進んで。「来て欲しいからポジションを作る」と言われたんですが、そこから実際に採用されるまで約1年かかりましたね。それほど急いでいなかったし、ADBでの自分の仕事を最後までやりたかったので良かったのですが、ワシントンでのスピード感とその後の進み具合のギャップには少し驚きました。
ネパールの農村にて 2011年、インド事務所で南アジア局の農村開発専門官として世銀の仕事をスタートしました。以前にも関わったアフガニスタンのCDDプロジェクトに携われる部署を探した結果、この部署になりました。途上国だと、政府のお金が住民に届かないということがあるので、CDDプロジェクトでは、コミュニティが作った組織に、中央政府から直接お金が届くようなシステムづくりを支援しています。政府から援助がもらえたことによって、人々の政府に対する信頼度が上がったり、コミュニティ内で話し合い物事を決定することによって、特に紛争地などで部族が違うからと話さなかった人たちの間に会話が生まれたりと、さまざまなプラスの効果が期待できます。そして、政府がやるよりもより迅速に、かつ質の高い援助が届くのです。私の仕事は、実際にコミュニティに援助が届くようなオペレーション支援や、コミュニティ組織が紛争や地方分権制にどう貢献できるか、といった評価や調査研究などで、非常にやりがいを感じていました。ところが、インド赴任後5日目にして妊娠が発覚。出産まではひとりでインドで働いていたのですが、出産を機に産休で当時夫が働いていたフィリピンへ。その後家族全員でデリーに引っ越して来たんです。夫はインドベースでありながら、テレコミュート(遠隔勤務)でフィリピンの仕事を続けていました。そんな中2人目を妊娠し、夫婦とも出張がある仕事ですし、さあどうする?と今後の勤務地を考え、約一年かけて上司と相談した結果、ようやく2人ともフィリピンをベースに仕事ができることになったんです。
ただ、ここでまた別の問題がありまして。夫も世銀で社会開発、平和構築の仕事に関わっていて、夫婦で同じマネージャーのもとで仕事をしてはいけないというルールがあるんです。そこで、わたしが都市開発チームに移動しました。そこでは、ローカルガバナンスの仕事や、スラム街に住む貧困層のための土地や家、サービスや雇用支援といった仕事をしました。実は近年の世界的な傾向として、難民や避難民が都市部に移動してきているので、紛争関係の課題が都市開発問題とも深く関係するようになってきました。スラム街に住む貧困層に対する支援は、実は紛争や難民・国内避難民関係の仕事と重なる部分が多いです。
フィリピン事務所には4年いて、2017年8月からワシントンDCの世銀本部に来ました。出張も多いので来るのをためらっていたのですが、子どもも6歳と4歳半で大きくなりましたし、一度は来ないといけないと上司に言われまして。周りからのサポートもあって、出張が多くても今のところなんとかなっていますね。今はアフリカ地域局で、ソマリアと南スーダンのローカルガバナンス、コミュニティ開発と、国内避難民支援を担当しています。ソマリアでは首都と第二都市で人口が2倍になるぐらいに避難民が流入していて、地方自治体をサポートしながら仕事、サービス、家をどのように提供するかといった課題に取り組んでいます。避難民や難民ばかりに偏って支援すると、元々住んでいた住民との間に対立が生まれるので、その住民側にも寄与するように支援をすることが課題です。スーダンの方は全国規模で、CDDのような住民参加型の意思決定プロセスを使いつつも、地方政府のキャパシティを強化するために地方政府にある程度のお金を与えて、コミュニティが作ったプロジェクトを支援するといった活動を支援しています。
仕事の醍醐味とキャリアビジョン
アフガニスタン、東ティモールやソマリアなどで仕事をしてきて感じることは、紛争地の政府は通常の途上国の政府よりも、新しいことや違う取り組みに対して積極的だということです。国の仕組みが全くなくなってしまうと「ゼロからよりよいものを作ろう」という意気込みが政府にあるので、新しい提案を受け入れてもらいやすいですね。もちろん行動規制がひどくて、モガディシュなどは街中にほとんど入れないので、もどかしさはあります。でも、根本的な国づくりに関わることができている、という実感は何ものにも変えられないですね。
今は部署を変わったばかりなので、アーバンディスプレイスメント支援(都市部における国内避難民・難民支援)だったら彼女ね、と言われるぐらいに自分の専門性と実績を積むのが当面の課題です。違う開発レベルの国で実績を重ねて、今度はリーダーシップを養うために、メンタリングなどにも取り組んでいきたいですね。
国際機関で女性は働きやすい? 結果的にいろいろな組織で働いてきましたが、JICAは日本の組織の中では女性の働きやすさを考えてくれている方だと感じました。産休・育休は1年間取れますし、子どもが6才になるまでは時短勤務制度もあります。産休・育休はADBが6カ月、世銀は70日なので世銀が一番短いのですが、JICAにもADBにもないのが世銀のテレコミュート制度。夫も一時期利用してデリーからフィリピンの仕事をしていましたし、この制度がなかったら子どもを育てながら働き続けられなかったかもしれません。また世銀は、マネージャーによって多少の差はあるかもしれませんが基本的にとても理解があり、かなり柔軟に家族が同じ国に住めるようにしてくれると思います。私も上司たちのサポートがなければ、夫婦で一緒にフィリピン勤務になることはできなかったと思います。
若者へのメッセージ
「どうやったら国際開発の仕事につけますか?そのためにはどういう分野を専攻すればいいですか?」と聞かれる機会がよくあるんですが、そういう方々へお伝えしたいのは、キャリア開発というものをあまり直線的に考えないで、ということです。私も覚えがありますが、若い頃って何かと最短距離を考えてしまいますよね。でも、結婚や出産などで状況は変わります。ですから、「好きこそものの上手なれ」という言葉の通り、まずは自分が好きで、これなら人に負けない、というものをまず見つけてください。そして、そのときどきに与えられた選択肢の中でベストと思えるものを選んでいたら、いつの間にか道ができていて、しかも最短距離で行ったときよりも広がりや深みを手にしている、なんてこともあると思います。
また、世銀に入ったばかりの方に言いたいことは、ここでは仕事は与えられるものではなくて、自分で作ったり、切り拓いていくものだということ。それがまた楽しかったりもするんですけれど。私も、今アーバンディスプレイスメントに関するワーキンググループをダイレクターの直轄で作って活動しているのですが、自分の勉強にもなるし、さまざまなバックグラウンドを持つ人が集まっているので組織内外のネットワーキングとしてもいい効果があるなと実感しています。自分がどんな分野のスペシャリストとして知られていきたいのかを意識して、与えられた業務以外でも何かを実行できるといいなと思っています。
(注) 特定のポジションに対するインタビューではなく、主に部署や仕事内容といった情報を得ることを目的に行われることが多い。