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特集2012年2月8日

阿南宏扶 世界銀行 ヨーロッパ・中央アジア地域総局持続可能な開発局 社会開発専門官~第42回 世銀スタッフの横顔インタビュー

かっちりとしたスーツ姿で現れた阿南さんだが、『坊っちゃん』に影響を受けて悪事を告発したエピソードや、ゲームソフトと今の仕事の関連性など、外見からは少し意外な話で場をなごませてくれた。世界銀行に入行してからの年数は浅いものの、入行するまでにさまざまな機関で積んだ経験や、開発の世界でのキャリアチェンジについての話は、開発の道を志す人にとって大いに参考になるに違いない。

Kosuke Anan

The World Bank
茨城県那珂市出身。十代の殆どをカリフォルニアで過ごす。慶應義塾大学総合政策学部中退、ワシントン大学卒業(政治科学)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)大学院修士号取得(社会政策・計画)。インド(タミル・ナドゥ)、コスタリカのNGOでの活動後、国際開発高等教育機構(FASID)ジュニア・プログラム・オフィサー、在ニカラグア日本国大使館専門調査員、JPOでユニセフ・ラオス事務所にて社会政策専門官として勤務。2009年9月にヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)で世界銀行に入行。現在、ヨーロッパ・中央アジア地域総局持続可能な開発局にて社会開発専門官として勤務。特にsocial cohesion(社会一体性)やsocial inclusion(社会的包摂)の促進・強化に取り組んでいる。

将来を考えるきっかけになった高校での葛藤

小学5年生までは日本で育ちましたが、その後は高校までアメリカでした。スティーブ・ジョブスの出身校であるカリフォルニアの公立高校に通っていたのですが、移民の子もいれば大金持ちの子もいる、貧富の差が激しいところでしたね。自分もマイノリティだったので、いろんなところで腹が立ったりもどかしい思いをしたりすることが多々ありました。そのとき以来「社会的な格差を是正したい」「弱い立場の人を力づけたい」と思うようになり、後に政策を学ぶきっかけになったと思います。

大学は日本に戻り、帰国子女入試で慶應義塾大学総合政策学部(SFC)に入りました。施設も整っているし、やりたい研究は何でもできるような恵まれた環境ではあったんですが、基礎から体系的な勉強をしたかった僕にとっては当てが外れた部分もあり、アメリカの大学に編入を決めました。

インドで感化されたのは、漱石の『坊っちゃん』!?

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ワシントン大学では政治学を学びました。この頃は、まだ何を勉強したいか具体的に固まっていない時期でしたね。ただ、政治に限らず、社会全般の仕組みというか、どうしたらより良い社会が築けるのかという、とても漠然的な関心はありました。さらに大学院に進もうと決めてロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)で社会政策・計画について勉強しました。

2001年に大学院を卒業したのですが、就職活動はNGOを含め80ぐらいの団体に応募したのですが、なかなか上手くいきませんでした。自分なりに理由を分析し、開発の世界に足を踏み入れるには、やはり途上国での経験が必要であると判断した結果、「自分への投資としてどこかで1年間経験を積めば将来きっと役に立つだろう」と、大学院で斡旋していたインドでのインターンに行くことを決めたんです。

ところが、いざインドに行ってみて愕然としました。自分に求められていたのは、早い話が汚職の手伝いだったんです。実は、インドに行く前に父親から夏目漱石の『坊っちゃん』をもらって飛行機の中で読んだ直後だったので、変な正義感が涌いてしまって。都会から田舎に行って、間違った考え方をしている人たちに立ち向かう主人公と、自分が重なったんでしょうね。これから自分のようなインターン生が何人か来るというので、「ここは素晴らしいところだとメールするよ」と言って連絡先を入手し、その人たちに「考え直した方がいい」というメールを送った上に、各大学に「ここは学生に斡旋するな」と告げ口をして、その日の夜行バスでそこを去りました(笑)。

開発の世界でキャリアを積む

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結局、インドに行く前に応募していたNGOから「来ないか」と言ってもらえたので、そこに行くことを決めました。コスタリカの農業開発系のNGOで、有機栽培をしているカカオやバナナをフェアトレードで欧米に輸出するお手伝いをする仕事です。具体的には、対象輸出国の規制に合わせて商品の品質管理をしたり、商品のロゴやウェブサイトを作ったり。約9ヶ月間いたのですが、翌年の4月から就職したかったので、それに合わせて日本に帰りました。労働許可証などの問題もあるので、自分としては日本で就職活動をしたほうがやりやすかったですね。「日本の中で日本人として経験を積んでからのほうが、世界でも通用するようになるかな」という思いもありました。

そして採用が決まり、働くことになったのがFASID(国際開発高等教育機構)です。主な仕事内容は調査研究のサポート。例えば「財政支援に日本がどう対処するか」という戦略を組み立てる上で、ウェブ上に氾濫している情報をまとめて検索しやすくしたり、その分野の専門家に要約して記事を書いてもらったりと、皆が議論をしやすくするための下準備を担当していました。議事録を取ることもあり、キャリアのスタートとしては非常に勉強になる仕事内容でしたね。

ただその仕事は1年間の期限つきだったんです。それであちこち応募して、次に勤務したのがニカラグア大使館の専門調査員。コスタリカでスペイン語は日常会話ぐらいだったら何とか話せるレベルにはなっていたのですが、やはり行ったばかりのときは大変でした。ここでは3年間を過ごしたのですが、よかったのは非常に小さい大使館だったので、何でも自分でやらなければいけなかったということでしょうか。まだ駆け出しだった僕が、一国の大臣や副大臣に会えるんですから。

日本はニカラグア政府に対し、ODAの一環で国外からの原材料や資機材などの購入のための資金を供与していて、その資金で鉄鋼、合成樹脂や肥料などを購入したニカラグア政府が、地元企業にその物資を売るんです(注)。そのようにして政府が得た利益は開発のために使わなくてはならない、という決まりがあるので、あちこちの省庁から「このように使いたい」と提案されたプロジェクトをモニタリングしたり、外務省と協議して開発計画書を作成したりしました。

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次にJPO制度を利用して入ったのがユニセフ。国際機関は選考プロセスに時間がかかるので、だいたいいつもある仕事についたら、2年目に入るぐらいのタイミングで次の仕事に応募するようにしていましたね。ユニセフの中で10個ぐらいポストを紹介されて、その中で3つを選び、オフィスと面接をして先方がいいと言ったら採用、というようなシステムで、ラオス事務所を希望して採用され、2007年の4月から2年強働きました。働き始めて改めて思ったのは、「弱者に対する支援という活動内容は素晴らしいし、必要だけれど、この人たちは、貧困から抜け出せない限り、支援に依存してしまう。もっと社会的な構造から変えていかないと、根本的解決にはならない」ということでした。そこで、根本的なところから貧困を削減するような仕事ができないものか、という思いがより強くなったんです。

世界銀行へ、そして現在の仕事内容

世界銀行のYPPという制度に応募したのは、確かユニセフ2年目のときでしょうか。採用され、2009年から世界銀行で働いています。最初は業務政策局(Operations Policy and Country Services: OPCS)の結果事務局という部署にいました。世界銀行の全セクターのプロジェクトについて、どういう結果を出したかを統計やレポートで報告するところです。例えば国際会議などがあると、「この分野において、過去5年間の成果が知りたい」というような要請が内部から来て統計を出します。世銀について理解が深まるという一面もありましたが、わりと機械的な作業が多い部署でしたね。

現在はヨーロッパ・中央アジア地域総局で社会開発専門官として勤務しています。OPCSには自動的に配属されましたが、今の部署には2年目になって、自分の希望を出して採用されました。このあたりの仕組みをわかりやすく言えば、プロ野球のドラフト制度ということになるでしょうか。部署側からの指名と自らの逆指名ができて、お互いの希望がマッチすればめでたく採用、ということになります。ただ、エコノミストなどの場合はひょっとしたら違うのかもしれませんが、「ここは予算がない」「ここは今年は採用しない」など、部署ごとにさまざまな事情があって、正直こちらで自由に部署を選べるような余裕はあまりありませんでした。

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現在の仕事は大きく分けて3つあります。1つはプロジェクト形成。現在はロシアで、スポーツを使って社会的排除(孤立)をなくすことを目的としたプロジェクトを進めています。ロシアはオリンピックやワールドカップなど、スポーツが盛んなはずの国なのですが、実は選ばれた選手だけがそれらの種目を極めていくような傾向が強いんです。スポーツというのは教育や職業訓練にもつながり得る、非常に応用範囲の広いものですよね。スポーツを一般市民にも広めることで、様々な困難を抱えている人にも社会に出るきっかけを与えたり、自暴自棄になっている若者を更生させるといった、さまざまな効果が期待できます。2つ目はプロジェクトの社会影響調査。プロジェクト準備段階には、そのプロジェクトを実施した場合、それが地域住民にどのような社会的、生活的な影響を与えるかを社会構造などを踏まえて調査する必要があります。もし悪影響があるようならば、プロジェクトに対応策を盛り込まなければなりません。3つ目はプロジェクト実施に伴うサポートとしてのセーフガード(環境社会配慮)です。例えば、カザフスタンでアラル海が干上がってしまったのに対して、水位を回復するために、大規模な貯水池などを作るプロジェクトが進行しているんですが、貯水池を作る場所に住宅地はないのか、もし住人がいたらその人たちにどういう対応をするのかなど、注意を払うべき要素が数多くあります。そういったプロジェクトの進める上で考慮すべきセーフガードについてクライアント国のサポートやモニタリングを行っています。

期限に間に合わせるためにはチームワークが重要

実感として、世銀は忙しいですね。実はグルジアへの出張から帰ってきたばかりなんですが、雪が降る中、1日20時間ぐらい働いていた気がします。プロジェクトの開始日時は決まっているので、そこから逆算すると「今日までに上司の承認をもらわなければいけない」、「この日までに政府側の合意をもらわなければいけない」など、クリアすべき仕事が山積みで。そういう意味では、いろいろなスペシャリストが力を合わせる"チームワーク"こそがこの仕事の醍醐味と言えるかもしれません。現在1才の子どもがいるのですが、出張が多いこともあって一緒に過ごす時間が少なく、寂しい気持ちもありますね。せめてワシントンDCにいる時だけは子どもと過ごす時間を確保するために、7時台には家に帰って家族と一緒に夕食をとり、子どもを寝かしつけてからまた仕事をしています。それでも子どもと過ごせる時間は限られています。

これからの予定

それまではあまり考えていなかったんですが、2011年に震災があってから最終的には日本に帰りたい、と思うようになりました。もちろんもっとキャリアを積んで、スペシャリストとしてきちんと通用するようになったらですが。それまでは、世銀で自分の分野の専門性を極めたり、新しいプロジェクトを立ち上げるようなことができたらいいなと考えています。先日、震災後初めて茨城の実家に帰ったんです。めちゃくちゃになった部屋を整理していたら、子どもの頃の写真や、ゲームソフトのドラゴンクエスト3が出てきました。で、ふと思ったんですよね。今の仕事をしているのは、ドラクエがきっかけだったのかもしれないって。ドラクエ3は実世界がテーマで、ゲームの中で世界のあちこちを旅して、各地で色々な難題に挑んで克服していくうちに、こういう生き方ができたらいいなと潜在的に脳にインプットされたんじゃないかと(笑)。未だに出張に行くと、「ドラクエの世界そのままだな」と思うことがありますね。人間の原点なんて、案外そんなものかもしれません。

開発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ

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まずお勧めしたいのは、若い間に冒険する機会をつくってみることです。旅に出たり、新しいものに挑戦できる機会はとても大切だと思います。未知との出会いがあったり、新しい発見があったりと、新しい経験ができることほど楽しいことはないと思います。それから、自らの反省も込めて伝えたいのは、逃げ道は意外と遠回りなことが多いということでしょうか。「大学や院でもっと勉強していれば、もっといろんなことができたのに」と今思います。さぼったことは、必ず後になって自分に返ってくるんですよね。仕事をしていても、壁にぶつかったときにごまかしたり、その場凌ぎな姿勢でかわしてしまったりすると、壁は残っているので、前に進むには遅かれ早かれいずれ必ず越えなきゃいけないときがきます。壁に当たったと感じたら、逃げずにその場で正面から立ち向かうこと。それが、僕が皆さんに伝えたいメッセージです。

(注) 商品援助(円借款及び無償資金協力)によって相手国が購入した商品の売却によって生じる資金(見返り資金)を政府が経済・社会開発のために使用する。商品借款を供与し、同時に重点セクターの開発政策を支援するもので、輸入資金としての外貨を輸入者に売却した代金として政府が受け取る現地通貨資金(見返り資金)を、あらかじめ合意されたセクターの開発投資にあてる。見返り資金の活用に関しては、日本の在外公館を通じてモニタリングされる。

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