Naoko Ohno

小学3年生のときに、家族でフィリピンに旅行したんです。マニラで車に乗っていたとき、自分と同じくらいの年の子どもが窓の外からお金をせがんできて、「どうして自分と同じ年頃の彼らが、こんなに私たちと違う生活を送っているんだろう」と衝撃を受けました。一方で、裕福に暮らしている家庭も垣間見る機会があって、その貧富の差に驚きました。幼いながらも社会に存在する不正義に疑問を抱いたことが、途上国の開発援助に興味を持った最初のきっかけだったと思います。ただ小学生にできることは限られていますから、当時したことといえばユニセフの募金ぐらいでしたけれど。中学・高校のときも何か特別なことをしたわけではなく、ただ歴史や地理など世界のことに興味があったので、とにかくそれらに関係した本をたくさん読んでいた記憶があります。そのせいもあって、先生からは哲学か史学科を勧められたんですが、それでは職業の選択の幅が狭まると思い、興味がある学科の中で国際的なトピックがなるべく多く出てくるようなところという基準で、政治学科に進むことを決めました。
大学ではチアリーダー部に入ったものの、2年生のときに練習中にスタンツから落ちて大けがを負い、親に活動停止を言い渡されてしまいました。その後、比較政治のゼミに入ったのですが、毎回学生が興味を持ったニュースを掘り下げて発表するという方式を取っていて、非常におもしろかったですね。ゼミの先生のモットーは、「世界のことを自分のことのように身近に考え、自分のことを世界のことのように客観的に考える」というもので、単純なメッセージに聞こえますが、これは今でも開発援助における私の考え方の核になっています。
就職活動中に海外経済協力基金を知って興味を持ち、応募したところ幸運にも入ることができたんです。海外経済協力基金では、まず中国・韓国・モンゴルの社会基礎インフラ支援事業に携わった後に、秘書室へ。途上国支援の現場から遠ざかることがいやで抗議したのですが、結果としては組織の上層部がどういったことを考えて仕事をしているのかを知ることができ、秘書室で働いた2年半は、まったく違った視点から開発援助を見ることにもつながり、とても勉強になりました。世銀総裁や円借款借入国の大臣クラスの人たちに直接お目にかかる機会もあって、今思えば貴重な経験でした。基金に入社して感じたのは、とにかく同僚にも上司にも後輩にも有能な人が多く、皆が開発援助という共通の目標を抱いて働くことは非常に素晴らしい体験でしたし、日々直面するチャレンジングな仕事も面白かったですね。
基金と日本輸出入銀行との合併により、1999年に国際協力銀行(JBIC)へと組織改編されたことに伴い、私のJBICでの新業務は、有償資金協力促進調査といって、案件形成を手伝ったり、案件実施中に問題が発生した場合は、調査を実施し解決を手助けしたりする仕事でした。最も印象に残っているのは、カンボジアでの港湾事業に関するプロジェクト。事業実施地域を含めたカンボジア全体でのHIV/AIDS感染率が増加している時でしたので、「地方から港湾工事のために集まった日雇い労働者などから、HIV/AIDSがさらに拡大するのではないか」という懸念があったため、保健の専門家と一緒に様々な対策を検討しHIVや保健に全く無縁だったカンボジアの港湾局に対して、保健局との協力体制の構築と、土木事業従事者の健康への配慮を働きかけるのは大変な苦労でした。このパイロットを契機として、円借款で実施される大規模インフラ事業についてはエイズ対策を組み込むことによって、JBICとして国際的なエイズ対策に積極的に参加していく運びとなったと聞いています。
仕事でいろいろな経験を積んでいくうちに、「やはり保健についてきちんと学びたい」という思いが強くなり、JBICを退職しJICAの支援を受け、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学院に留学しました。学んだのは公衆衛生(public health)。この言葉自体は日本では馴染みが薄いですが、公衆衛生と医療の違いは、医療が患者個人個人の治療を主とするのに対し、公衆衛生は集団に対する疾病予防、例えば、子どもの予防接種や栄養、エイズ対策キャンペーンなどを意味します。人は健康でなければ教育を受ける機会も制限され、それによって仕事にも就けず貧困からも抜け出せなくなるので、人々の健康は国の発展の基礎だと思い、この分野で大学院で勉強することに決めました。
私が選択したヘルスサイエンスという2年間のプログラムは、1年目はコースワーク、2年目はインターンを経験して卒論という流れでしたが、一番苦労したのはコースワークの最初に生物学や解剖学を英語で学ばなければならなかったことです。クラスメイトは医療のバックグラウンドを持った人が多く、そこまで医療の知識が要求されるとは思っていなかったので、授業についていくのが大変でした。講師として来ていた世銀のスタッフから誘って頂いたインターンを修了し、大学院卒業後は正式にコンサルタントになりました。
2010年5月からパキスタンの人間開発セクター(保健、教育、社会保障)が主な仕事ですが、2009年にはタリバン攻勢、そして2010年7月には歴史的な大洪水があったため、世銀は緊急支援というスキームを使ってプロジェクト準備を進めました。通常1年程度かけてプロジェクト準備を完成させるのに対し、緊急支援では2、3ヶ月で終わらせるので、そのプロジェクトに携わったらどれくらい慌しくなるか想像出来るかと思います。結局、洪水発生から9ヶ月以内に、私は4件のプロジェクト準備に携わり、2ヶ月に一度の出張をこなしつつ世銀理事会承認までもっていきました。2ヶ月に1度は出張でしたし、本当に忙しい1年でした・・・。パキスタン政府の洪水被害者支援プログラムに他のドナーと支援を行ったプロジェクト、洪水後のポリオケースの増加に対してポリオワクチンの緊急調達支援プロジェクト、などです。私はお話ししたように保健が専門ですが、業務担当官として、保健に限らず、違うセクターから複眼的に一国の開発を捉えることが出来、とても満足しています。JBICでインフラ事業を担当していた経験が、開発に対する視野を広げてくれているのだと思います。
但し、幼い子供を置いての出張が多いのが難点で、出張先からスカイプで会話している時などに娘に泣かれたりすると、母親不在で本当にかわいそうだと思います。仕事に専念出来るのも、夫や両親の全面的な協力があってこそです。でも、将来、娘がもう少し大きくなったら、「お母さんは私を育てる一方で、途上国の子供たちとその母親も健康で幸せな生活を送れるように仕事を頑張ってきたんだね」、と思ってもらえるかなと期待をしています。
世銀は開発援助の世界では影響力も大きく、私自身やりがいのある仕事が出来て光栄です。でも、開発援助を仕事としたいからといって世銀にこだわる必要は必ずしもなく、JICAやNGO、民間企業もオプションのひとつ。先述のように、開発は複合的なものですから、自分のバックグラウンドも考慮して、どんな分野で関わっていきたいかを客観的に考え、目的意識をはっきりさせ、可能性を狭めずに、習得すべきスキルを見極めることが大事です。
自分自身を振り返ってみても、人生というのは計画した通りには進まないものです。でも、与えられた環境の中で吸収できることは全て吸収し、それをどう次のステップにつなげるか戦略的に考え行動につなげることで、道が開けてきます。そして開発の仕事に対する問題意識や情熱を持ち続けていれば、困難な状況を乗り越えようとするパワーも出ますし、実現可能になることもたくさんあると思います。日本の若い皆さんには、夢を大きく持って実現させていって欲しいと思います。
最後になりましたが、“warm heart, cool head”―私が海外経済協力基金に入ったときに教えてもらった言葉です。人々の苦労に共感出来る温かい心と、冷静にその対処策を考えられる頭脳、その両方が開発援助を志す人には必要ですので、この言葉をぜひ頭のどこかに留めておいて欲しいですね。