「英語での授業」で決めた大学、途上国への旅行 大学を選んだのはミッション系、ランゲージラボがある、そして 英語で授業があるという理由のためです。大学では英文学部でしたが、音声学を専攻しました。当時女子学生は当たり前のように短大や文学部という時代でしたから、英文学や音声学を専攻することに何の迷いもありませんでした。もっとも出身高校のカリキュラムでは経済学は3年生まで出てこなかったので、そのころは経済学の面白さを全く知らなかったのもありますが。日本の大学で文学部を出た私が、その後海外で経済学の博士号を取得し、世界銀行で働くことになるとは、そのときはまだ考えてもみませんでした。
大学時代はサークル、アルバイトの傍ら、とにかくよく旅行しましたね。インド、パキスタン、トルコ、ヨルダン、シリア、エジプトなどの、当時は20歳そこそこの女子大生が行くには、かなり特殊というか、エキゾチックな国も訪問していました。父の仕事の関係で、子供のころ途上国に住んだこともあるため、私もそういった国に対する偏見のようなものはあまりなかったのだと思いますし、両親もたぶんそうだったのでしょう、毎回快く送り出してくれました。まあさすがにトルコ中をバックパッカーとしてキャンプして回ったと、帰国して言った時には口を利けないほどショックをうけていましたけれど(笑)。
就職、そして固めたある決意 大学を卒業した後は、日本の民間企業に一般職として入社、国際金融、とくに海外融資を数多く取り扱う部署に配属されました。私の担当する案件は開発途上国、および東ヨーロッパが主でした。私にとっては、これが経済と国際金融への出会いです。そこでそれまでほとんど知らなかった、経済理論、金融実務に触れ、その面白さにのめりこみました。
当時、日本はバブル景気の真っ只中、会社の業績も上向きで、けっこう楽しい会社員時代でしたよ。ただ、最初のうちは周りからちやほやされていても、次の年に新しく新卒女子社員が入ってくると、みんなの注目が露骨に向こうに奪われることにある日気づいてしまって(笑)。入社後2年目には、「一生自分でお金を稼いで生きていくのなら、この会社には定年までいられそうもない」と思い、長期的な将来設計の必要性を感じました。
実はこの時点で、国際開発関係、特に国連、青年海外協力隊に大変興味があったのですが、何せ文学部出身。応募資格もなかったんですよ。この時点で選択はいくつかあったのですが、仕事を通じて入った金融の世界の面白さ、そしてちょうど東側共産圏の崩壊に伴って発生した顧客国の債務不履行などを経験し、途上国に対する問題意識、本格的な経済学への興味が強まり、大学院への進学を考え始めました。
最初は働きながら、上智大学の夜間のコースに通い始めました。当時はフルタイムの社会人向けの大学講座などあまりなく、英語で開発経済学のコースといえば、上智しかありませんでした。バブル時代の真っ最中でしたから、学校がない日は仕事は毎日夜中まで、そして終電後なのでタクシーで帰宅後に夜中の2時ごろまで勉強と、ギリギリまでやった結果、何とか先が見えてきた感じ。そして、入社後3年目、勉学に集中するという結論を出しました。
もともと勉強が好きだったというのもあるんですが、大学を出た時点で本当は大学院に行きたくて父親に話しのですが、「とにかく一度社会に出なさい」と強く言われて就職の道を選びました。実際に自分が就職してみてなるほどと思いました。就職することでぐっと視野が広がりました。国際金融の面白さ、経済学への興味、開発問題への熱意もここで確認することができましたし、人間関係、責任感などすべての面に関し、やはり学生時代は甘く考えていましたから。いろいろな考え方があると思いますが、個人的にはストレートで大学院に行くより、一度社会に出てみることをおすすめします。特に、日本の一般企業でフルタイムで、そしてできれば正社員で働くことは大変意義のあることだと思います。日本の企業は、新入社員教育に大変な投資をする文化がありますし、私にとって何よりも世界でも評価の高い労働倫理、そして顧客志向を学ぶ大切な経験だったと思います。世銀は顧客相手の仕事ですから。
そして英国留学 上智大学の指導教授に留学のことを相談したところ勧められた、サセックス大学のInstitute of Development Studiesから入学許可をいただき、念願の大学院進学を果たしました。会社を退職し、留学するまでの半年ぐらいの間に、ブリティッシュカウンシルという英国の国際文化交流機関で、選抜されたイギリスの大学に行く学生のための特訓を受けました。英語での論文の書き方から、プレゼンテーションの仕方をみっちり仕込まれました。それでも渡英後、最初の1年では英語に苦労しましたね。子どものころ海外にはいましたが、親の教育方針で全日制の日本人学校にいたので英語で勉強するアドバンテージはまったくといっていいほどなかったんです。特に数学。現代主流の新古典派経済学では理論を数式で表現することがほとんどなのですが、例えば乗数、微分、積分などの専門用語を英語で知らなかったので最初は大変でした。それでもそれまで正式に経済学を履修したことがなかったので、理論を数式で説明するということが非常に面白く、がむしゃらに勉強しました。サセックスで経済学修士取得後、欲が出て今度はロンドン大学で金融学修士を取得。運がよく学業を認められて、英国政府からの奨学金を頂き、ケンブリッジ大学の博士課程に進むことになりました。
英語で苦労したりもしましたけれど、それまでの勉強というのは一生懸命勉強すればいい成績がとれるものでした。でも博士号ではその分野に貢献することを要求されるので、今までの学習方法と全く違う。自分が新しいものを生み出さなければいけないんです。この違いに慣れるまでの間は戸惑いも大きかったですね。ケンブリッジ大学の博士課程の指導教官が著名な方だったんですが、ものすごく厳しくてまるで鬼のような人(笑)。あまり良くない出来栄えの論文を持っていった時、見ている前でゴミ箱に捨てられたこともあります。本当に指導は厳しくて、よく泣かされました。今ではいいトレーニングだったと素直に思えますが、当時は本当に苦労しました。
経済学の博士論文のひとつの章に、経常収支と対外債務の持続性についての理論を述べたのですが、ケーススタディとしてベトナムを取り上げました。1994年にベトナム戦争以来続いていたアメリカの経済制裁から開放され、ベトナムが経済的にどんどん成長していったもっとも面白い時期ということもありましたが、ちょうど1994年にIMFでサマーインターンをした時、ベトナム国担当のチームに配属され、豊富なマクロデータを入手することができたということも大きな理由です。博士課程にいる間に世銀とIMFでインターンシップを経験したんですが、どちらもその機関を知るという意味では大変役に立ちました。博士号取得後にはどちらかの機関にぜひ就職をと考えていたので、両機関の職場の雰囲気、仕事の内容、採用状況などできるだけ情報を得ておきたかったのです。思いがけなく得た収穫は、世銀、IMFならでは手に入る最新のデータ、経済学に関する書籍はほとんどなんでもそろっている図書館、そして(無料の)コピー機。その後、博士論文を執筆する上で大変役に立ちました(笑)。
「仲間意識」が生まれるYPP インターンでの経験を通じ、やはり博士号取得後はワシントンに、と思いを強めました。博士課程在籍中にヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP) に応募して無事に受かり、論文を終了後に世銀に入行することになりました。YPPを通じて世銀に入行する日本人には帰国子女が多く、私自身も小さい頃に海外で生活した経験があります。しかし、私の場合、欧米の高校や大学の出身ではなく、普通の日本人と同様に日本で教育を受け、大学を卒業し、日本で一般企業に就職しました。はじめにお話ししたとおり、学部の専門も開発経済学とは関係の無い文学部です。それでも、その後の進路変更でこのようにYPPを通じて世銀に入行し、国際開発に貢献することもできますので、若い人にはいろんな可能性があるということを知っていただきたいと思います。
YPPの1つ目のローテーションでは最初東アジア・太平洋地域総局の貧困削減・経済管理局マレーシアチームに配属されました。ちょうどアジア危機の最中だったのですが、各国がIMF依存の経済改革を遵守する中で、マレーシアだけは、IMFに対峙した独自の資本規制策を導入し、それが自由市場主義に反することから大きな話題となりました。その資本規制導入は海外からのマレーシア・リンギットへの投機を規制し、通貨を安定させて経済回復を図ることが目的なのですが、当時首相を務めていたマハティール氏は、順調な経済成長をしてきた国がマネーゲームの餌食となり、為替が乱高下して、経済が疲弊したと、アジア通貨危機の現状を総括。その上で新しい外国為替規制を導入し、海外投資家によるリンギットの取引の規制を行い、流動性を制限することによって国内金融市場を海外から隔離する究極の政策をとりました。ですが資本規制策、特にマレーシアが導入した反市場的なタイプは短期的に効果があったとしても、長期的に経済にゆがみをもたらすという点で非常にリスクが大きく、ひとつ間違えば、外国資本を逃がすことになりかねません。私の世銀での最初の任務はマレーシア政府に対し、こういったリスクを喚起し、資本規制の改革を促すための非常に重要な政策提言書をまとめることでした。
運よくマレーシア政府は私が提言した出口戦略に沿って1999年2月から徐々に資本統制策を緩和し始め、そして景気回復期待の高まりから国際資本流入も次第に回復に向かいました。最初の任務がうまくいったので、2つ目のローテーションでは南アジア地域総局の貧困削減・経済管理局にスムーズに決まりました。この南アジア地域総局で、大変いい上司に恵まれ、叱咤激励されながら育ててもらえました。最初南アジア地域総局からお話をいただいき、初対面の際、私はこの上司となる彼にどうしたらエコノミストとしてもっと成長できるかと質問したんです。「恐れず失敗をたくさんしなさい。そうしてその失敗から学びなさい」との答えを聞き、この上司についていこうと思いました。
YPPは非常にいいプログラムだと思います。同じぐらいの時期に、同じような年頃の人が30~40名程度入るので仲間意識やいい意味での競争意識が生まれますし、先輩にも後輩にもYPP出身者がいるのでそういう人にアプローチもしやすいですしね。YPPで入行しているということは、ある種の選抜をくぐりぬけて入ってきているということなので、信頼も得やすく世銀でキャリアを積み始めるにはよいエントリーポイントだと思います。
「30代までは冒険」と、自らの成長のためにIMFへ 世銀入行後5年目でIMFに移ったのは、自分のキャリアを考えたときにエコノミストとしてもっと成長したいと考えたことが最大の理由です。ブレトンウッズ姉妹機関として同じように見なされがちの世銀とIMFも実は一枚岩ではなく、同じマクロエコノミストでも業務内容が異なるのはもちろん、官僚機構の意思決定メカニズムとそのスピード、文化、職人気質もかなり違うんです。まれに両機関で経済政策の内容やタイミングに関し、意見が対立することもあります。長期的に見て、マクロエコノミストとしてキャリアを積んでいく上で、そしてエコノミストとして国際開発に貢献する上で、両機関で業務経験を積むことは非常に有益になるだろうと判断しました。
そういうわけで、ミッドキャリア・エコノミスト採用プログラムに応募をしてIMFに入りました。実は、最初は世銀の上司と人事部に休職扱いでと交渉したんです。どういうわけか局長にまで話が行ってしまって、局長自身から「絶対駄目です、とんでもない」と言われ、それが交渉しているうちに、「では行ってもいいけど必ず戻ってきなさい」と言われたんです。でもまだ若かったんでしょうね。向こうのほうが仕事が面白いかもしれないし、IMFもうちに来るのならといい待遇を提示してくれたので、そんな約束はできない、と突っぱねてしまってすっぱり世銀を退職してIMFに行ったんです。「30代までは冒険して、40代では平穏な人生を」と、なんとなく自分の人生を思い描いていたんですが、まだ30代だったからそんな向こう見ずなことができたんでしょうね。世銀とIMFでは姉妹機関とはいえ、当時は年金制度の互換性・可搬性が全くなかったため、転職は将来の年金受給にも大きく影響する重大決断でしたから。結局現在は両機関の年金制度はリンクされているので、最終的には将来の年金受給に重大な影響はなさそうです(笑)。
IMFで配属になったのは、財務政策局。財政専門エコノミストとして地域局の国担当チームに配属され出張に参加したり、技術局として政策調査・研究も盛んでした。世銀出身のためたくましいと思われたんでしょうね。割り当てられた国は脆弱国、とくに治安に問題がある国ばかり(笑)。特にパプアニューギニアは地域開発銀行でさえ、女性職員を送り込まないような国。IMFのチームを空港まで迎えにきたのはいわゆる装甲車で、武器こそは装備されていないものの、防弾ガラス防弾タイヤ装備、無線機能までついた、まさに私から見たら戦車でしたし、夜中にはホテルのすぐ外で銃声がしたりするようなところでした。IMFでの経験での一番の収穫は、やはり業務、とくに中期経済予測に用いられるファイナンシャル・プログラミングという手法の習得です。そしてIMF時代に培った人脈も、IMFで垣間見た意思決定のメカニズムも、後で世銀に戻ってからも非常に役に立っています。世銀のマクロエコノミストである以上、IMFのエコノミストと協調して仕事をしていくのは必須ですから。
ただ、IMFでは仕事をする上でクライアントである途上国との距離が遠いということは感じました。IMFの業務のひとつであるサーベイランス(政策監視)は、特に融資を受けている国にとってはそれが経済政策に対してIMFの実質的なお墨付きとなるため、どうしても国側はIMFに対して弱点を控えめに報告しがちです。そのため、クライアント国と率直に経済政策の弱点に対し改善策を議論する機会が、個人的には世銀にいた時と比べて限られているような気がしました。私はよりクライアントと近いところで仕事ができる世銀のほうが肌に合っているんじゃないか、ということに気づいて、「世銀に戻ろう」と決意しました。
世銀への再入行、現在とこれからの仕事について とはいえ、簡単に戻れるだろうと思っていたら、これが甘かった(笑)。戻るのは本当に大変でしたね。世銀外部に公募されるポジションに応募するのですが、ひとつのポジションに対し200―300人の志願者が世銀内外から応募するので、最終審査の面接までこぎつけてもオファーを実際手にするまでしばらくかかりました。いくつかのポジションに応募して、2005年に世銀に戻りました。IMFでは3年弱働きました。
戻ったときはアフリカ地域総局に配属され、IMFの経験を見込まれて、ジンバブエやセーシェル担当になりました。政治的混乱、一貫性のない経済政策、深刻な食糧不足、そして想像を絶するハイパーインフレーションの真っただ中だったジンバブエや、マクロ不均衡、そして債務危機に陥ってにっちもさっちも行かない状態のセーシェルと、国際社会の経済援助から締め出された両国の政府高官からは信頼され、非常に困難でしたがやりがいがある仕事でした。
2009年の5月から現在の経済政策債務部という部署に移ってちょうど1年半程が経ちますが、現在担当している仕事には大きくわけて3つあります。1つはマクロ政策、特に財政政策を中心に調査研究・分析。例えば近年は金融危機があったので、こういった外部的ショックに対しどういった政策対応が一番有効であったか、将来同様のショックの発生に備え、持続的成長、貧困削減に対する妨げを最小にするための準備態勢と早期警戒を促すための効果的なメカニズムの設計に取り組むなど、研究・分析結果に基づく最新のベストプラクティスを世銀内の知識基盤として蓄積すること。そしてこれらの分野に関し、世銀の公式見解をまとめた文書を幹部用に作成すること。2つめは世銀の内部で上がってくる融資案件・国別援助戦略・政策提言書などの書類をレビューしてコメントをすること。3つめはクロスサポートというんですが、地域総局の国別担当エコノミストの要請に応じ経済分析の支援、時には直接途上国政府に助言をする。例えば、国別担当エコノミストからある政策について助言を仰ぎたいとの依頼が来ると、他国の具体例を入れた文書をまとめ、政策アドバイスをする。この1年間ではジンバブエやボツワナ、インドやバングラデシュなどにクロスサポートを行いました。
これからのビジョンとしては、エコノミストとしてさらに成熟することに注力していきたいですね。世銀のエコノミストとしてのクライアント国と向き合う仕事を続けるにあたって、一度は政府側にたって政策実行に携わる仕事も経験する必要もあるかもしれません。
「日本人としての誇りと責任」を持つ 世銀でマクロエコノミストとして活躍したいならば、経済学博士号は必要だと思います。もちろん、なくても入行している人、活躍している人もいないことはないですが、経済理論に基づいて政策決定をするエコノミストという仕事を遂行していくには、できる限り経済理論・経済分析に必要な技術は世銀に入行するまでに蓄積しておいた方が良いと思います。それに英語を母国語として育っていない者としては、英語でものを書いたりプレゼンテーションしたりする訓練になりますし、周囲に対するある種のシグナリング効果ももたらしてくれます。それから世銀を目指している方にはフルタイム、できれば正社員で職務経験を何年か積んでいただきたいです。先ほど言ったとおり、個人的には日本での職務経験を積むというのも非常に有益だと信じています。
幼いころから両親に言われていたことは、「日本にいたらあなたはたくさんいる日本人のひとりにすぎないけれど、外に出ればひとりの日本人なんだ」ということ。まだ世界で活躍するような日本人が少なかったということもありますが、「あなたの言動は日本人の代表として見られるのだから、きちんと責任感を持って行動しなさい」という教えを、私自身無意識のうちにずっと心の中に抱いて行動してきました。実際に国際機関で働いてみて、これは非常に大切なことだと実感しています。例えば一人の世銀職員は、世銀で働いている一万人強の職員のひとりでも、クライアント国から見れば、まさに世銀そのもの。一個人の行動が、世銀全体の評価に関わることもあります。世銀で働くということは程度の違いはあっても、政府そして、その国民に影響を与えるということであり、世銀各職員の提言に重みと責任があります。そのことを逐一考えながら行動する必要があります。