インドで過ごした幼少期 今、開発の仕事に取り組んでいるのは、幼少期の影響が大きかったと思います。農村開発に取り組む両親に連れられて、インドに渡ったのは4歳のとき。そのとき家で働いていたお手伝いさんがいたのですが、彼女は低カーストの出身で、子供のときに学校に行かせてもらえなかった為に読み書きが出来ない上、就ける職種も限られていたんです。私が夏休みで学校の寮から帰ると、いつも彼女が「学校はどうだった?」と聞くんですね。そのたびに「私が学校に通わせてもらっているのは単なる偶然。この機会を無駄にするのは彼女のような人たちに失礼だ」と実感し、精一杯勉強に取り組もうと意識するようになりました。
母国を知るために日本の大学へ―環境問題に携わるきっかけ
高校まではインドの全寮制のインターナショナルスクールで学びましたが、大学は国際基督教大学(ICU)に進学しました。将来は国際的な仕事につきたいとこの頃から思い始めていたのですが、日本代表として海外に出るには、母国の事をきちんと学ばなければと思ったんです。日本語に関してもだいぶ努力しました(苦笑)。
入学当時、生物学と歴史に漠然と興味を持っていたのですが、自分の研究分野がまだ絞りこめていませんでした。そんな時、国際法の教授が「その2つを組み合わせるなら国際環境法はどうか?」とアドバイスをくれたんです。先生のアドバイスを受けて図書館に行き、国際環境法と分類された本をひと通り目を通してみたところ、これは面白そうだな、と。その後、別の教授の紹介でちょうど日本で行われていた国際環境会議に、ボランティア通訳として参加をしました。この国際会議に参加することで友達ができ、また違う会議の通訳に誘ってもらって、というふうに、いろんな会議の通訳を3年ほど続けました。結果的に世界の環境問題や日本のNGOのことを知ることができました。
ミシガン大学大学院留学、国連JPO、JICAでの現場経験 環境問題への理解が深まるに連れ、国際機関において途上国の環境問題に携わりたいと考えるようになりました。国際機関で働くためには最低限修士号が必要だということで、1年間の交換留学を経てICUを卒業した後、ミシガン大学自然資源・環境学大学院に進学しました。この大学院を選んだのは、学部のときに勉強した環境法や環境政策といった社会科学系の知識に加え、理系分野である生態学を学ぶことで、より良い環境政策の立案に役立つと考えたためです。
大学院在学中、22歳のときに国連のJPOに願書を出しました。最近、JPOの合格者平均年齢は上がっていると聞いていますが、当時でも最年少だったと思います。面接で「ちょっと若いですね」と言われましたが、結果は合格。UNDPカンボジア事務所に派遣され、環境プログラムを担当しました。一番最初に担当したプロジェクトがカンボジアの環境法の草案を書くことでした。クメール・ルージュの代表ポルポトが森に潜んでいる時期で、外では銃声がする毎日。若い頃にこうした現場で働くことができたのは貴重な体験でした。
JPOとしての2年間の終了後、ジュニア専門員としてJICAに採用されました。JICA本部勤務期間中は、中近東やアフリカに出張し、廃棄物や大気汚染に関するプロジェクトの発掘や形成を担当し、その後、ネパールにコミュニティ防災管理の専門家として2年間派遣されました。国連のそれとは異なるJICA事業の実務を学ぶとともに、専門家としてネパール政府のカウンターパートと共に仕事をする経験を得ることができました。
ローン(融資)による援助への関心から、世銀へ ネパールでのJICA専門家としての任期中、森林・土壌省に対するアドバイザーとして、様々な援助機関へのプロポーザルの立案にも携わりました。その際、グラント(贈与)の案件と比較し、アジア開発銀行などに対するローン(融資)案件のプロポーザルを検討する際の政府関係者の真剣度が全く違うことに驚きました。融資は自国の借金になりますし、通常グラントよりも融資のほうが案件の規模が大きいので、当然といえば当然なのでしょうが、途上国政府の側がそこまでして受け入れたいと考える融資による援助の実務を経験したいと思うようになりました。
そんな時、誰かが世銀のヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP) について教えてくれたんです。YPPは2年間のプログラム期間中、2部署での業務を経験し、プログラムの終了後、正規のスタッフになるというものです。一般に、国際機関のポストは即戦力であることが求められますが、将来世銀をリードしていく中核人材を「育てる」ことを目的としている点に惹かれて受験し、合格しました。
YPPでの最初の部署は、地球環境ファシリティ(GEF)という信託基金の事務局でした。二部署目は東アジア・大洋州地域総局の農村開発セクターでした。ここでは、ベトナムや中国の沿岸域管理プロジェクトの融資案件を担当しました。そして、YPPの終了後、現在所属する南アジア地域総局の環境・水資源・気候変動セクターに移りました。当時は、ネパールやブータンの様々な分野の案件の環境・社会配慮審査や、インドにおける気候変動への適応(Adaptation)に関する調査分析・アドバイスを担当しました。
休職して博士号を取得、現在の仕事、そして、これから 南アジア地域総局で3年間勤めたあと、休職し、2005年から2008年まで博士課程で学ぶためミシガン大学大学院へ戻りました。大学院に戻ったきっかけは、実は高校時代まで遡るんです。当時、中央ヒマラヤ地域において、地域保健に関するボンラティアを行ったんですが、その際、地域住民が葉を過剰利用するために、オーク(ナラ)の木々が奇妙な形状の生長を遂げているという現象を目の当たりにしました。森林に依存して生活している住民が、なぜ木々に負の影響を与えるような利用方法を続けているのかということに疑問を持ったんです。国際機関で働きたいという思いとは別に、この疑問をいつか研究を通じて解き明かしたいというのが高校の頃からの夢だったんです。
修士論文のときも、このテーマで中央ヒマラヤ地域におけるフィールド調査を行ったのですが、修士論文の結果をベースとして、博士論文でも同地域におけるオークの影響について、民族生態学と森林生態学の両面から研究を行いました。キャリアのブランクをなるべく小さくしたかったので3年間と時限を切って論文に取り組んだため、かなりきつかったのですが、とても充実した毎日でした。
博士課程終了後、再び南アジア地域総局に戻り、現在、インドの持続可能な土地・生態系管理プログラムや、南アジア地域における野生生物の密輸取り締まり強化の支援、バングラデシュにおける気候変動への適応力を高めることを目的とした複数ドナーによる基金立ち上げの支援などを担当しています。また、年末か年明けには、ダッカ事務所(バングラデシュ)へ自然資源管理分野の担当として赴任する予定です。ワシントンDCでの仕事も充実していたのですが、自分は常に現場にいたいので、現地での仕事を今からとても楽しみにしています。
バングラデシュ勤務の後のことは具体的に考えていません。ただ、世銀でのキャリアを終えたら日本の大学の教壇に立って、日本の若者に自分の経験を伝えたいなという夢を持っています。
学生のときには「自分を知ること」が大事 若い人たちに伝えたいのは「インターンシップを探している」「国連に入りたい」という短期的な見通しではなく、自分の夢をきちんと考えてほしいということ。また、自分が何に関心を持っているのかを見極めることも大切です。学生時代は、そういうことを考えるのに一番いい時期。そのためにも、学生のときにしかできない、いろんなことをやってみてください。NGOでの活動やボランティアや大学などのスタディツアー、交換留学とか。先進国だけでなく、途上国にもいい大学はたくさんあります。そうやって色々なことを経験することで、好き嫌いだけでなく自分には何が向いているのかもわかってきます。最初から「自分はダメだから」と決めつける前に、まずチャレンジしてみて下さい。自分のできることがわかり、自信にもなりますよ!
もうひとつ伝えたいたいのは「学生のときはどんな質問をしても許される」ということ。恥ずかしい質問をするのを恐れて口をつぐんでしまうよりも、聞きたいことをどんどん聞いたほうが絶対にその後の自分のためになります。海外に出たいのなら、「誰かがやってくれる」といった甘えは禁物。国際協力の仕事は未知の世界を切り開き、知らないものを作り上げていく世界です。積極的に自分で動ける人にこそ国際機関への扉は開くのだと思います。
お勧めの図書
(写真右手)岩波ジュニア新書『国際協力の現場から―開発にたずさわる若き専門家たち』(山本 一巳 [編集], 山形 辰史 [編集])。これは国際開発に興味のある人必見の本。現場の視点から書かれており、国際開発における様々な課題を理解するうえで非常に役立つ一冊。
(写真左手)明石書店『貧困に立ち向かう仕事−世界銀行で働く日本女性』(西水美恵子/著)。元世銀南アジア地域担当副総裁の西水美恵子氏が、自身の世銀における仕事のやりがいや苦労について触れたエッセイ。牧野さんご自身も含めた世銀日本人女性スタッフ達によるショートエッセイも含まれており、国際協力の分野で働くために必要な下準備についても紹介されています。