「これを仕事にしたい」と思えたアフリカでの体験 そもそものきっかけは高校3年のときのアメリカへの交換留学です。色々な国から留学生が来ていたのですが、発展途上国からの留学生は優秀で、「自分の国をこれから自分が引っ張っていくんだ」という意気込みが感じられ、非常に刺激を受けました。
その後大学では「アイセック(国際経済商学学生協会)」というサークルに入って、環境と開発に関する国際学生会議をの開催に携わったり、スタディツアーを企画したりしました。10人のメンバーと、アフリカへのスタディーツアーを1年位かけて準備し、1か月ほどケニア、ジンバブエ、そしてナイジェリアに行ったのですが、これが本当に勉強になり楽しかった。そして、ひと言でアフリカと言っても国によってこんなに違いがあるんだということを実感し、驚きました。「アフリカの経済開発と日本企業の役割」をテーマに各国の大学生にホストを務めてもらい、政府や現地にある日本企業の訪問などもしました。実は行く前は「自分たちに何がしてあげられるだろう」なんて考えていたですが、いざ行ってみたら逆に教えられることばかり。毎日が発見の連続で、本当に充実した経験でした。その時、「これを職業にできたら」と思ったんです。
JPO合格、そしてユニセフでの初仕事 とはいえ、「開発の仕事」についての基礎知識はゼロ。就職先として国連しか思いあたらなかったので、じゃあ国連を目指そう!と。そのためには修士号が必要と知り、修士課程で学ぶべくイギリスの大学院へ。卒業後に、国際機関の日本人向け採用プログラム、ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO: Junior Professional Officer)の試験を受けたところ、幸運なことに採用がきまりました。
私は何よりもフィールドで仕事がしたかったので、派遣先としてユニセフを希望しました。決め手は、当時の先輩方の「フィールドに近い仕事をしたいのならユニセフ」というアドバイスでした。そして希望が叶って派遣されたのが、ユニセフのモルディブ事務所。モルディブは、みなさんリゾート地のイメージが強いと思いますが、当時はまだまだ発展途上で、国民一人当たりGDPも500ドル程度。リゾートの島と現地の人々が住む島が分かれていて、首都のマレは人口密度のとても高い島。私は教育・保健の整備に携わったのですが、2年半の間に200ほどある現地の人が住む島のうち80位をボートで回って島の長や政府の人々と一緒にプロジェクトの計画、実施、そして調査の仕事をしました。モルディブは小さな国、ユニセフ事務所も所長と私と現地のスタッフが4、5人という小規模だったので、ユニセフのプログラムの全体が見渡すことができ、また仕事の結果が見えやすいというよさもありましたね。初めての仕事でこのような経験ができたのはとても幸運だったと思っています。
実は「アンチ世銀」だったんです 仕事も楽しかったのでこのままユニセフに残ろうと思い、契約期間終了後の新しいポストもほぼ決まっていたのですが、そんな時、尊敬していたモルディブの所長から「これからずっと開発の仕事を続けていくつもりなら、若いうちにもっと専門性を高めたほうがいい」というアドバイスをもらい、留学という選択肢を考え始めました。とはいえ、正直まだ働き始めたばかりで留学資金も充分ではなかった。かといって、その頃阪神淡路大震災があったこともあり、神戸の実家に少しでも心配をかけたくありませんでした。どうしよう…と思っていた時、現地に専門家としていらして一緒に仕事をさせていただいた米国の大学教授から推薦をいただき、奨学金も受けられることになったので、ニューヨーク州立大学で博士課程に進むことにしました。
博士課程はもう一度やりたいとは思わないですが(笑)、留学生活は充実していましたね。コースワークは厳しく、マクロ、ミクロ経済も統計もみっちりやらされ、しっかり鍛えられるので大変でしたが、論文では自分の関心のあるテーマを研究できるので楽しかったです。
実は、ユニセフで働いていた頃は、世界銀行に対してあまりいいイメージを抱いていませんでした。なんだか敷居が高く、傲慢な印象があって。でも、大学院留学中に世銀でのインターンを経験してみて、その印象は180度変わりました。「頭がいいだけでなく、開発に対する情熱があり人間的にも尊敬できる人たちが楽しそうに仕事している!」と、衝撃を受けたんです。また、論文の現地調査で行ったバングラデシュでも、飛び込みで世界銀行の現地オフィスに「私はこういうリサーチをしているんですが、何か仕事はないですか?」と売り込みに行って仕事をもらったりしたのですが、この時の仕事もやりがいがあった。それで俄然世銀に興味を持ち出した頃、ちょうど「若手幹部候補の採用プログラム、ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)というのがあるよ」と教えてもらったので、YPPに応募し、幸運にも合格しました。
私は博士論文を書き上げてから応募しましたが、国際機関で働くのに、必ずしも博士号が必要だとは思いません。世界銀行を意識するならば専門性は必須ですが、修士号の専門性がしっかりしていればそれで十分だと思います。実際、YPPの同期は30名ほどいましが、博士と修士の割合はだいたい半々といったところでした。世銀で研究を中心にやるならば博士号があったほうがいいのかもしれませんが、プロジェクトのオペレーションを希望するならそんなに必要ないのではないでしょうか。
強く希望したアフガニスタンでの赴任 入行後最初の仕事はシエラレオネとモーリタニアの教育セクターのプロジェクトでした。その後、ラオスに赴任しダムのプロジェクトに携わりました。最貧国であるラオスの水資源を開発して電力をタイに輸出しその収入で貧困緩和、環境保全に取り組むといったもの。規模が大きく、しかも人の立ち退きの問題もあり賛否両論があり、とても難しいプロジェクトです。村の人々との何度にもわたる対話、環境保全のための対策など、現地に根ざしたきめ細やかな、そして地道な仕事の大切さを学んだ貴重な経験でした。
ラオスでヤング・プロフェッショナルとしての任期の終わりが近づき、そろそろ次のポストを考えなければと思っていた時、紛争直後のアフガニスタンに世界銀行が事務所を開くという話を聞いて「これだ!」と。以前から紛争直後の国で緊急援助から国の復興に移行していく段階での仕事をしたいと思っていたので「アフガニスタンの現地で仕事がしたいので行かせてください」という内容のEメールをあちこちに送りました。それこそ、局長クラスから、日本人の副総裁にまで。でも自分の逸る気持ちとは裏腹に、メールには一通の返信もありませんでした。「そろそろ諦めよう」と思い始め、「最後にもう一度だけ」と送ったメールにディレクターが反応してくれ、何度かの面接のあと赴任が決まりました。
希望と不安に胸を膨らませて到着したカブールは、思っていたよりも活気があったものの、建物の凄まじい崩壊状態や炎天下ブルカをかぶっている女性を見ると胸が痛みました。2002年の夏のアフガニスタンは、移行政権のもと復興がようやく始まったものの、まだまた混とんとした状況。停電は日常茶飯事、電話も通じない、資金を地方や学校に送るのも至難の業。多くの援助機関の活動の調整も難しく、アフガニスタン政府の教育大臣、そして財務大臣から厳しいお言葉をいただくなど、最初は苦労の連続でした。何度も大臣そして教育省そして色々な州、村の人々のニーズを聞きに行き、こちらからも新しいアイディアを提案したり、状況の変化に合わせてプロジェクトのデザインを変えたりもしました。からんだ糸を一つ一つほどき、少しずつ結果を出していくことで、大臣の信頼を得て、2年目にはプロジェクトを拡大してほしいと政府からの依頼を受けました。私は今まで10カ国以上で教育に関わる仕事をしてきましたが、アフガニスタンほど教育に飢えている国を見たことがありません。そこで3年間復興のお手伝いをする機会を得たことは、開発に取り組む人間にとってかけがえのない経験でした。
大きく組織のことを学べる総裁補佐官という仕事 現在はワシントンDCの本部で総裁の補佐官をしています。組織のことを広い視点から把握でき、総裁の具体的な仕事ぶりを間近で見ることができるので、自分のキャリアの面でも非常に勉強になっていますね。仕事内容も多岐に渡り、スピードが求められますし、どこで何が起こるかわからないという点はアフガニスタン時代と似ています(笑)。総裁補佐官に求められるのは、同時に複数の仕事をこなすマルチタスク、適切な判断力といわゆる橋渡し的な役割。総裁と各部局の潤滑なコミュニケーション、決定事項のフォローアップ、総裁用の説明資料に複雑な内容をいかに簡潔に織り込むなど、仕事の量をこなしつつ質を落とさないように心がけました。振り返ってみると、着任半年後に食糧危機があり、そして、石油危機、金融危機、世銀改革、増資…と、本当に様々なことがありました。この「激動」の期間に、補佐官として幅広い経験ができたことはとても恵まれていたと思います。ただ、この任期も終わり。次はラオスの現地事務所に「戻る」予定です。ヤングプロフェッショナルとして行ったときは8か月しかいることができなかったので、今は再びラオスに3年間行けることがすごく楽しみです。
自分の「本当に好きなこと」を仕事にする やはり、仕事というのは人生の多くの時間を捧げるものなので、皆さんにも自分が情熱を持って取り組めることをやって欲しいですね。私は開発という仕事が好きです。毎日毎日多くのことを学ばせてもらっていて、それでお給料をもらえるなんてこんな幸せなことはない、と心から思っています。それと、開発を仕事にしようと思っているのであれば、少なくとも一度はフィールドでの経験をすることをおすすめします。その国に住まなければ分からないことが沢山あるし(何年住んでも分からないこともそれ以上にありますが)、「郷に入る」ことで体験できる開発に取って代わるものはないのではないでしょうか。そして何よりも楽しいですよ。