小さい頃から「東大一直線」 生まれは八戸なのですが、小さい頃は父親の仕事の関係で横浜で過ごしました。小学校5年のときに八戸に戻ってから、言葉が違うので最初はいじめられたんですよ。すぐに学級委員にさせられたり、それで先生にも学級委員がしっかりしていないとだめだろうと叱られたり。転校直後はそういうことがちょっと嫌でしたね。そうこうしている間に土地の言葉にもなじみ、八戸に対するふるさと意識みたいなものが芽生えて、今となってはあの時八戸に引っ越してよかったなと思います。
基本的には、ちょっと勉強のできる普通の子供だったと思います。学校では、俗に言う優等生だったかもしれません(笑)。でも何故か、家ではいつも叱られていた。父親は僕が小さい頃から問題集を買ってきて、これをやってみろみたいな感じの教育熱心な人で、父親に言われて小学校時代からなんとなく東大を目指していました。あと小さい頃から野球が好きで、下手くそですがよく野球をしてました。東大でも野球をやっていて、東京六大学野球での公式戦唯一の打席はサード・ライナー。立教の長嶋一茂に捕られました。今はもう引退しましたが、世銀と国際通貨基金(IMF)の合同ソフトボール・チームでは、一番サードを1995年から約5年間務めました。
東大では3年進学時に成績で進学振り分けがあるのですが、当時は野球ばかりやっていて成績が芳しくなかったのです。それで限られた選択肢の中から、1番面白そうだと思った都市工学を選択しました。その時は確たる目標があった訳ではなく、流れでそこに行ったんですね。結果的に今につながってきているということは、野球のおかげかもしれません。なので、色んな意味で野球にはすごく恩を感じているんです。
途上国に意識が向いたインドネシアでの体験
大学では4年間野球しかしていなかったので、大学院に進んで2年間普通の学生生活を体験してみたいと思っていたんです。それで院を受けたら合格したので、そのまま東大工学系研究科都市工学専攻の修士課程に進みました。修士1年の夏休みに、教授にインドネシアに派遣されたことが途上国に興味を持つきっかけになりました。それまでは、国際問題にとりわけ関心がある訳でもなかったんです。現地では、ジャカルタ市の都市廃棄物処理のマスタープラン作りをJICAと一緒にやったのですが、JICAの専門家とインドネシア大学のボランティア学生約20名の橋渡し的な役割を務めました。インドネシア人学生と一緒に各家庭を回って、高所得、低所得の家庭でどれぐらいゴミが出るか等socio-economic data(社会経済データ)の収集をしたのですが、これがすごく面白かったんです。インドネシアの学生たちとの交流も面白かったですし、各家庭を訪問するときにスラム街などに行くと、子供たちにワーッと囲まれるんです。ニワトリをかかえてきてイタズラされたり、それがすごく新鮮な体験で。子供たちの瞳がすごく輝いていて、「ああ、こういう世界もあるんだな」と衝撃を受けました。
ただ、その一方でジャカルタという街は非常に格差が激しいところでもあるんです。高層ビルが立ち並ぶような一角がある一方で、スラム街では貧しい子供たちが劣悪な住環境のもとで生活していました。「これはおかしいな、何とかしたいな」と強く感じて、将来は途上国に関わる仕事がしたいとそのときに思ったのです。
2か月間の船上生活、その後・・・ そんな中、東京大学の大学院を卒業する前に父親が倒れて、長男ということもあり故郷の八戸に戻ることになりました。八戸市庁に入り、土地利用計画や都市再開発を担当していましたが、地方公務員としての仕事は思ったより面白くてやりがいのあるものでした。八戸市庁で働き始めて3年が経った頃、国際交流プログラムの「東南アジア青年の船」に参加する機会がありました。各国から集まった若者が200名ぐらい船の上で共同生活をしながら、2か月間東南アジアをまわるプログラムです。アジアを巡っているうちにかつてのインドネシアでの思いが甦って、やっぱり自分は発展途上国に関わる仕事をしようと決意しました。船を下りてからどうすればいいか案を練って、もう一度大学院に入り直すことを決め、「僕は国際機関に行きます!」と大見得を切って市庁を退職したのです。
2回目の大学院から世銀入行まで 経済的なこともあって、実際に海外の大学院に留学するのが難しかったので、僕が目をつけたのは八戸の隣町にある三沢の米軍基地内で提供されていたオクラホマ大学大学院のコースでした。元々は基地内の軍人やその家族のためのものなんですが、日本人も通うことができるんですよ。市庁も辞めて、貯めたお金もみんな院につぎ込むしかないので、言ってみれば背水の陣ですよね。プログラムで日本人は僕1人で、同級生は全員アメリカ人。莫大な資料を読まされるし、テープレコーダーを持ち込んで聞き取れなかったところを後で聞いたり、授業についていって単位を取るのに必死でした。院の2年目に入ってから、国連ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(Junior Professional Officer:JPO)やアジア開発銀行(ADB)、世銀などいろいろな国際機関の試験を受けて、最終的に世銀への入行を決めることができました。
世銀に入るとき、八戸市庁での4年間に得た都市開発分野での経験が思いのほか評価されたようです。ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)のインタビューでも、「日本の自治体での経験を途上国の自治体育成に生かしてほしい」と言われたことを覚えています。日本の地方自治体でやっていたことが国際機関で評価されるとは、市庁に入ったときは考えてもいませんでした。だから、全部流れですね。うまく流れにのって、それがうまくつながっていったというのが、僕の率直な気持ちです。世銀に入ってみて思うのは、何らかの専門を持って日本の自治体で働いている人は、途上国開発の世界でも役に立つということ。それは、途上国の自治体が担うべき住民サービスの改善が、貧困層の生活水準向上に直結する場合が多いからです。
つらいときは野茂選手の活躍を励みに 1994年に世銀に入行した当初は、海外で本格的に働いた経験もなかったし、まだ英語でのコミュニケーションもうまくなかったので、ハッキリ言って苦労しましたね(笑)。それに、世銀内部の業務政策や規定がたくさんあって、新たに勉強もしなくてはいけない。次の仕事も与えられるのではなく、自分で見つけに行かなければいけない。大変なところに来てしまったと思いましたよ。だから、1995年に野茂英雄投手がドジャースに来て、同じ日本人がアメリカで活躍しているのを見て、仕事がうまくいかないときなどはすごく励まされました。あのとき彼がメジャー・リーグに来ていなかったら、もしかして自分は日本に帰っていたかもというぐらい。ここでも野球に救われました。
世銀で仕事に取り組む姿勢 今は、主にスリランカとブータンを担当しています。スリランカではずっと農村地域の水供給と、2005年からは津波被災地の復興や住宅再建などの仕事をやっていて、ブータンでは都市インフラの整備など主に都市開発のお手伝いをしています。おおざっぱに言えば、仕事の性質は八戸市庁時代からやっていることとあまり変わらないと思っているんです。それを八戸でやっているか、スリランカやブータンでやっているかだけの違いです。今ある問題を解決するために、現地の中央政府、自治体、コミュニティなどと話し合いながら様々な役割分担をして、地域住民のために一番いい方法を模索する、それが僕の仕事だと思っています。
僕も最初はそうでしたが、普通の日本人は一般に世銀みたいな国際機関で評価されるまでに時間が必要かもしれませんね。英語ネイティブやほかの国の人に比べて弁が立つわけでもないし、プレゼンテーションもあまりうまくない。自分で自分を売り込むのも下手だし。でも仕事は真面目に取り組み、きちんと進めるから、クライアントからの評価が高い日本人は多いのではないでしょうか。この世界で大事なのは、結局は個人の総合力なんだと思います。専門性や語学だけでなく、リーダーシップや協調性、途上国開発への熱意、倫理観や体力までひっくるめた総合力。長打力では劣っても俊足と守備力でレギュラーを勝ち取る選手がいるように、語学では多少劣っても専門性や他の能力でカバーできる面もあるでしょうから。自分個人の性格や考え方に「日本人」としての部分はもちろんあるでしょうけど、仕事の面では僕は「自分は日本人だから・・・」とか「日本の代表として働いている」という意識は全然ないですね。僕自身、「日本人として」ではなく、「慶長寿彰」として働いている、そう思っています。
地球規模の視点を養う
若い人に勧めたい本といえば「パパラギ」ですかね。南の島の酋長の目を通して、先進国の社会を皮肉るようなストーリーです。もう何年も前に読んだ本ですが、とても新鮮な視点に驚かされました。アメリカや日本で暮らしていると、なかなか途上国が理解できない。途上国と一言で言っても、実にいろんな国があります。先進国も途上国も知って、いろいろな視点で物事を見られる、そんな地球規模の視点を養ってほしいものです。だから僕は若い人には「アメリカより、できれば途上国に行け」って言ってるんですよ。異文化での他流試合で自分を鍛えてほしい、途上国なら尚いいと思います。
世界のメジャーリーグを目指そう 最近の若い日本人には、国連や世銀で働きたいと思っている人が増えているようですね。僕もよくそういう若い方々からメールをもらいます。でも、漠然と国際機関で働きたいと思っている人が多く、職種や専門まで考えて明確な目標を設定している人は少ないように感じます。世銀にもいろんな職種があり、様々な専門家が働いています。その中で、自分の専門やスキルを磨いて、途上国でもできるし日本でもできるし、という考え方をしてほしいですね。簡単に言えば、「世界に通用するプロになろう」ということでしょうか。野球でも仕事でも、音楽でも何でもいいですけど、自分がやりたいことを追求して「その世界のメジャーリーグ」を目指してほしい。あの当時の野茂や、最近のイチローを見ていると、ああいう日本人がもっともっといろんな分野で増えてほしいと本当に思いますね。
現在、ふるさとの八戸大使としても活躍していらっしゃる慶長さん。八戸の遺跡から出土した国宝の合掌土偶 がご本人の名刺にも印刷されている。この合掌土偶は、昨年大英博物館の土偶展にも出品され、八戸から世界にデビューした仲間だと喜んでいる。